弁護士 五十嵐 里絵
Profile
‘正義’に目覚めた子ども時代
私は、昭和48年、会社員の父と専業主婦の母の長女として生まれました。まさに団塊ジュニア世代で、教室には子どもたちが溢れかえっているような時代に育ちました。
小学生のころはとても内向的で、友だちづき合いも苦手、ついでに体を動かすことも大の苦手で、とにかくひたすら本ばかり読んでいました。学生運動の熱いうねりの中で青春時代を送った両親は、政治的・思想的な問題が夫婦げんかの一因になってしまうような、社会に対してのある種の誠実さを常に持っていて、本ばかり読んでいるおとなしい娘に百科事典や図鑑、偉人伝、歴史や社会の本を次々に与えてくれました。そんなこともあって、私は、好きな人を尋ねられると、たのきんトリオより、ナポレオンや織田信長と答え、大きくなったら社会正義のために己を犠牲にするような英雄になるんだと1人と意気込むトンチンカンな子どもになりました。
弁護士法第1条に弁護士の使命として掲げられている「社会正義の実現」という言葉を目にすると、居住まいを正す心境になりますが、その萌芽はこのころにあるように思います。
生意気な学生から新聞記者に
中学生、高校生になっても本好きは変わりませんでしたが、このころになるとさすがに社会性が芽生えて、今でも交流のある良い友に出会うこともできるようになりました。
他方で、このころ、とにかく勉強が得意だった私には、自分に大きな自信が芽生えるようにもなりました。東大に現役合格したときには、「きっと私は世の中をより良き方向に導く人間になる」と確信していましたから、今から考えると空恐ろしいことです。
大学では、社会学を専攻しました。自分は天下国家を語る資格のある人間だし、社会の正しい姿を見出すことのできる人間だと思っていて、大きなことばかり考えていました。卒業論文のテーマは差別問題。このころは、今とはだいぶ違う意味で熱かったなあと思います。
大学4年生になって就職活動に入った私は、新聞記者になると決めて、自分としてはあっさり入社試験を突破し、社会問題を炙り出し、社会をより良き方向に導くジャーナリストになるのだと意気揚々と新聞社に入ることになりました。
このころまでが挫折を知らない順風満帆な私の前半生です。
弁護士を志す
私は、せっかく入った新聞社を、2年も経たずに辞めることになりました。
新聞記者の仕事は、刺激的で楽しいものでしたが、ひょろひょろとした世間知らずの私にとっては予想をはるかに超えた激務でした。辞める原因の1つには、体を壊したこともありますが、何よりも挫折感を味わったのは、初めて現実の世界と事件と人間を目の当たりにして、何が正しいことなのか、自分が正しいことをしているのか、全くわからなくなってしまったということに対してでした。
新聞記者は、事件の現場に立って、情報を集めて記事にして世の中に伝えます。そのとき、マクロな視点からニュース価値を判断することは当然必要なことですから、事件の成り行きを最後まで追うことはさほど多くはありません。自分でも予想外なことでしたが、私は、この事件の関係者は、この後どうするんだろう、経済的なことはどうなるのだろうと、そんなことが気になってしかたありませんでした。今目の前で困っている人にどこまでも寄り添って、支えていけるような仕事がしたいと思うようになったのです。
これは、今になってはっきりとわかることですが、人には与えられた器があるように思います。マクロな視点から社会全体の利益を考えるべき器がある人もいれば、家族や友達、会社など、自分の目の前にある人たちのために働くべき人もいる。小さいころから、世の中をより良き方向に変えるんだと意気込んでいた私にとっては、予想外のことでしたが、私は、市井にあって、自分の目の前にいる人を助けるような仕事がしたいとはっきりと思いました。そのときに思いついた職業が弁護士。私は、入社から2年も経たずに新聞社を辞めました。
こうやって書いてしまうと、あまりにきれいな話で気恥ずかしいので、少し付け加えておくと、会社からドロップアウトしてしまった要因には、激務に対応できないという体力的な問題もあり、また、弁護士を目指そうと思った動機には、そうでも言わないと親にも世間様にも体面が立たないという気持ちもあり、もっと単純に、秀才が社会に出て疲れてしまっただけとも言えます。今になって振り返ると、あそこでもうひと踏ん張りして頑張るという選択肢もあったように思うし、その後の私の人生の経過からすると、会社に残った方が生涯獲得賃金は高かったかもしれませんね。
挫折と迷走と、そして学びの10年間
若かったのもあって、あっさり会社を辞めた私ですが、そこから、約10年間の長い挫折と迷走、そして真の学びの時期に入ります。
会社勤めに挫折したものの、受験勉強には自信のあった私は、司法試験が難しいと言ったって、まあ大したことはないだろうとタカをくくっていました。そんなこんなで、まずは何か仕事でもしないと、というわけでアルバイトを始めました。それまでの私は、バイトと言えば、塾の講師や家庭教師などが定番だったのですが、今までにやったことがないことをやってみたいと思い、いろんなアルバイトをしました。レストランや居酒屋、喫茶店、コンビニエンスストアなどのほか、弁当の工場や倉庫の作業、ティッシュやチラシ配り、テレフォンアポインターなどなど。理屈抜きで、体を動かして収入を得るという生活は、新鮮で楽しくもあり、体力的・金銭的には厳しくもありました。皿の洗い方、野菜の扱い方ひとつ知らずに周囲の人に大笑いされ、職場に日本人が自分だけで、東京のど真ん中にいるのに異邦人ということもあり、いろんな場所でいろんなことを経験しました。
自分の能力を見誤って、バイトに熱心になりすぎるなど、よそ見ばかりしていたせいか(まあ、とはいえ、主として能力不足により)、司法試験には何回も落ちました。このころのことを正確に思い出すのが難しいのですが、たぶん6回か7回は落ち続けたと思います。あれ、おかしいなと思ったときには、30歳を軽く超えていました。
同級生は大人になって、どんどん偉くなっているし、これはまずいぞ、と必勝!の覚悟で臨んだ試験にも落ちて、このころにはだいぶ高慢の鼻をへし折られていた私は、さすがにこれはもう弁護士は無理かなと思い始めていました。
他方で、この期間にたくさんの人に出会い、生きることには様々な苦しみと悩みがあることを実感して、そんな人たちをサポートできるような強い力を持ちたいという思いは強くなり、弁護士という職業への憧憬は会社を辞めたころよりずっと強くなっていました。
遂に念願の弁護士に
そうは言っても、もう諦めるしかないかなと思っていた私の背中を押してくれたのは、アルバイト仲間の友人たちと、両親でした。私は、覚悟を決めてロースクールに進学しました。このときには、すっかり自分の真の能力を悟っていましたから、ロースクールに進学してからの3年間はほんとうによく勉強しました。生まれて初めての死にもの狂いの勉強で、最後は500円玉くらいの円形ハゲができました。
ロースクール卒業後、初めての司法試験は、ここまで勉強してダメだったら今度こそ本当に諦めようという思いで臨み、やっと合格することができました。
研修期間を経て、晴れて弁護士業務につくことができたときは、37歳になっていました。
女性の味方を目指して
順調に受験戦争と就職活動を切り抜けた前半生のあとの約10年間、私の人生は、20歳のころには予想もしていなかったような経路をたどりました。キャリアと職務経歴という面でみれば、とても人に誇れるようなものではありません。
ただ、これは若干悔し紛れなのかもしれませんが、自分を知り、世の中を知り、人の情けと恩義を知るという意味では貴重な期間であったと思っています。
そしてもう1つ、この期間に様々な悩みを抱えた女性たちと出会ったことが私の弁護士としてのあり方に1つの方向性を示してくれました。結婚、育児、仕事―女性は様々な局面で女性特有の多様な困難に直面するのだということをまざまざと見せつけられたことで、女性の生き方を法的にサポートしていきたいという思いを強く抱くようになりました。
弁護士になるまでずいぶんと長い時間をかけましたが、今は、この時間に、自分を支えてくれた人と社会への恩返しのつもりで、全力で弁護士業務に取り組んでいます。私の目の前に立つすべてのお客様の苦しみや悩みが消え去るよう、自分のすべての力を尽くすことができることが私の喜びです。